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July 31, 2005

第27話 チョロまかし

 フィリピンにある日系企業では駐在する日本人は常にそのレベルを試されていると言ってよい。端的に言えば、チェック能力と決断能力だ。この中でチェック能力は当然のことながら言語が通じなければでは、著しく毀損する。この日本人はチェック能力が低いと見れば、何でもOKの世界がそこから広がり、彼らにとっては歓迎すべき駐在員になってしまう。しかし言語が通じなくても数字は万国共通だ。
 最近の日本ではモノを捨てるのにカネがかかる。しかし、フィリピンでは廃棄物は金のなる木だ。古紙、木屑などは充分に売値がつく。専門の業者も数多くある。木枠をバラした木屑や段ボールは頻繁に買取業者が買い付けに来ていた。ある時、私はサイトの中をほっつき歩いていた時、ちょうどダンボールの検量をしている光景に出くわした。うず高く量の上に乗せて間違いなく検量はなされていた。が、翌日私に届いたスクラップ・セールスレポートはちょっとおかしい。
1枚1枚を量ったような縦に長い一覧のリストになっていて、1枚づつのグラム数が書いてある。1枚づつ計ってなどしていなかったではないか。ばかばかしいとは思いながら、私は電卓を叩いた。案の定わざと計算間違いをちゃんとしてあるのだ。正確には覚えてないが、2割くらい少なめにわざと計算間違いをしてある。いちいち日本人の幹部社員がこんな面倒な検算までしないだろうと、タカを括っていたのだろう。正確に量った結果古紙の売却価格は5000ペソだったとしよう。故意に計算間違いをして4000ペソにする。業者は5000ペソを支払うが、差額の1000ペソを業者側のバイヤーも含めた関係者で分け合おうとした可能性が高い。
 それにしても、現場の者から総務部長に至るまで何人もが書類にサインしている。彼らがノーチェックなのか、或いは全員が小遣い稼ぎのグルなのか見極めは出来ないが、フィリピンでは管理者の管理状況が甘ければ、徹底的に“ヌキ”にかかってくることは確かだ。

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July 29, 2005

第26話 脅迫メール

 尤も爆弾騒ぎは日常茶飯事とは言わないが、当地ではよくあることだ。加工区にある米系メーカーはしょっちゅうだったと記憶している。従業員が解雇されたことへの逆恨みが結構多いようだ。
 当地の就業規則では、ペナルティに関する項目が細かく規定されていて、ペナルティの得点が累積すると解雇に該当する。ところがこの運用が実際にはかなりルーズな状態になっていた。揉め事を好まないフィリピン人が職場ぐるみで意図的にルーズにしていた感も無きにしも非ずだ。データはペーパーのみで保管され、当人を職場異動させ、ペナルティ等のデータを紛失したと言ってしまえば累積はゼロにリセットだ。これはおかしい、ということになり、規則の厳格な運用をあるときから人事部門に指示した。
 その頃からである。私のセルラーに頻繁に脅しのメールが飛んでくるようになった。
「お前は永久に日本に帰ることは出来ない」
こんな文面のメールがほぼ毎日のように送られてきた。私の携帯番号は現地スタッフでは数名しか知らないことになっている。誰かがリークしたのか、或いはこの数名の中に該当者がいるのか。
 フィリピンでは、都合の悪いことを相手に言う時、主語を自分にせずに誰々がこう言っている、のような言い方をすることが多い。恐らく解雇された社員にはMr.○○が解雇しろと言うのでこうなった、という具合に伝えられたことは想像できる。Mr.○○=私のはずだ。電話会社に調査を頼んだが、個人情報でもあり番号からは送り主を特定できず、マニラにその携帯電話の持ち主がいる、ということだけが解った。今もってそれ以上のことは解からない。
 これらの脅しが実行されることはなく、彼の意に反して幸いなことに私はこうして日本で元気に暮らしている。

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July 28, 2005

第25話 お前の会社を爆破する!?

 ある日、総務部長Tが血相を変えて私のところにやってきた。彼はくしゃくしゃの手紙を手にしていた。手書きのビサヤ語の手紙だ。勿論私には読めない。
「この会社に爆弾を仕掛けた。用心するが良い。」と書いてあるそうだ。
「おい、一体いつ爆破させるというのだ。」
「○月○日って書いてます。」
と言いながら、ニヤリとして彼の表情も緩んだ。○月○日って1週間前じゃないか。
「手紙を出した日付はどうなってるんだい?」
「その1週間前です。」
・・・。この国では郵便物は相当遅れて届く。途中でなくなることもしばしばだ。今回の脅しの手紙は投函後2週間経って届いたという極めて平均的なリードタイムだが、自分の国の郵便事情をちゃんと考慮に入れて爆破予定の日付の設定をすれば、狙い通りに効果的な脅しになったはずなんだけど。微笑ましい爆弾犯人でした。

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July 27, 2005

第24話 留置場(2)

 ラプラプ警察署は然程大きいわけではない。確か小さな2階建てだったはずだ。取調室(のような部屋)のすぐ隣が留置場だ。6畳間くらいの広さで床は冷たそうなコンクリート。頑丈そうな鉄格子が不気味さを醸し出す。だ。すでに何の容疑で収監されているのか分からないが3人の先客?がいる。いかにも人相の悪そうな男たちは全員裸足でパンツ1枚。水だけは与えられているのか500CCのペットボトルを各自片手に握り締め、鉄格子に掴まり、我々に向かって吠えている。何とも形容しがたい光景だ。登別温泉の鉄格子の中にいて観客に向かって吠えまくっている熊たちと同じくらいの気味悪さだ。
 こんなところに上品そうな日本人が放り込まれたら、と想像するだけで目眩がした。何しろ、ここの警察では、夜には鍵をかけて警察官は全員帰ってしまうらしい。あとは何でもありの世界だ。何とか連れて帰らなければならない。自分の名刺と身分証明書を提示して、明日の朝には必ず本人を連れて再度出頭すること、被害者ともよく話し合い、充分に補償することを何度も説明し、約束してどうにか事を免れた。
 後日現地のマネージャに聞いたら、そんなところに日本人が放り込まれたら、夜中にはボクシングが始まり、収監者全員から袋叩きにあっていただろう、朝には生きていないはずだとも、と言っていた。何かトラブルを起こせば、どの国でも外国人は不利だ。とりわけフィリピンではその傾向が強い。
 トラブルには巻き込まれないこと。油断禁物。これは長期に滞在しているとむしろ用心すべきことだろう。

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July 25, 2005

第24話 留置場

 G♂氏の場合は小額のカネで事なきを得た。だが、N氏の場合は少々厄介な展開だった。彼は酒の飲み方が豪快だ。飲む時は潰れるまで飲むタイプだ。しかし、それだけならここで取り上げる話題にもならない。
 セブでは何かあると、パーティだ。飲んで食べてゲームで楽しむ。流儀こそ違え、日本でもお馴染みの光景だ。特に当地ではビーチパーティが一般的だ。飲み物や食べ物は持込だから大してカネはかからない。さて、N氏である。彼は部下主催のビーチパーティに招待され、いつものように大酒を飲んだ。
 ある日曜の晩、私はテレビを見ながらウトウトしていると、例によりメイドから電話だと呼び出された。但し、今回は電話の相手はラプラプ警察だ。(ラプラプ市はセブのマクタン島の中心都市)
 大変なことになった。N氏は飲酒運転で事故を起こし、取調べを受けているというのだ。同僚の駐在員をこのままにしておくことは出来ない。赴任して2ヶ月しか経っていないので、ラプラプ警察の場所も分からない。クルマを運転しながら道中、何度も道を尋ねながら、やっと警察に辿り着いた。何と、彼は酔いつぶれて、かような状況にもかかわらず、大鼾で気持ち良さそうに寝ている。警察官の話では彼は酔って運転中にオートバイと接触したらしい。オートバイの青年は幸い大怪我には至らなかったものの、事故後の逃走の嫌疑がかかっていた。そして、今日は一晩ここに留置する、ということであった。そして、彼が留置されるという留置場を見せてもらった。これは・・・。

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July 21, 2005

第23話 G♂氏の場合(その3:被害者が来た

 翌日は何事もなく過ぎた。誰でもそうだが、こんな時は1日が過ぎるとほっとするものだ。どちらかといえば楽観的なG♂氏にも既に笑顔が戻っている。
 が、しかしやはり、というべきか。2~3日ほどして‘被害者‘は会社にやって来た。事の次第は聞いているので、私は総務部長のTに言って、万が一彼がG♂氏を訪ねてきても、彼には会わせないよう話してあった。実際の対応はT部長の部下のC課長が当たっていた。治療費を貰いに来たと言っていた様だが、最後には簡単に諦めたようで、彼は去っていった。T部長の推測では、「相手は日本人だし、行けば金をもらえるだろうと、周りの人が焚きつけたんだろう。怪我をしたので1週間くらい働けないとか言っていたが、随分とぴんぴんしていたようだし、800ペソも渡したのなら、No need to pay.」似たような例は山ほどあるが、もらえれば儲けもの、くらいの感覚で様々な人達がカネの無心で会社にやってきたものだ。
 G♂氏は、それ以来数日は「今日は大丈夫ですよね?」「今日は来てませんよね?」と用心深かったことは容易に想像できよう。

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July 20, 2005

第23話 G♂氏の場合(その2:交通事故)

 どうやらこんなことのようだ。夜中にマンダウェの大通りを運転中に、横から飛び出して来た自転車のトライシクルと接触した。その弾みでトライシクルは横転し、運転していたおじさんももんどり打って地面に転がった。
「今どこだ?」
「ブリッジからタランバンに向かう途中です。いつの間にか大勢のギャラリーにまで囲まれてます。」
「じゃ、今から出よう。」
「あっ、でも大丈夫そうです。おじさんも怪我は大したことなさそうだし、もう、トライシクルを起こして、壊れてないかを見ています。金もあるし、もし揉める様なら、また電話しますから、その時は来てくださいね。」
 30分くらいして彼は帰ってきた。
「いやー、一時はどうなるかと思いましたけど、無事に何とかなりました。おじさんも結構ひどい擦り傷だったけど、それよりも彼はトライシクルの方を心配そうに触ってました。」
「で、結局いくらかかったんだい?」
彼は満面の笑顔で、
「笑っちゃいますよ、いくらだと思いますうー?要求してきたのはたったの300ペソですよ!300!トライシクルの修理代と言ってました。だから僕は財布から300ペソを出そうとしたんです。そうしたら、ポロッと500ペソも一緒にくっついて飛び出てこぼれちゃって、ギャラリーがそれも出せ、それも出せ!って大合唱するから、しょうがないからそれもあげちゃいました。それでも800ペソですからね。いいんでしょうかね?こんな金額で。」
と、ほっとした気持ちもあってうれしそうなG♂氏。
「ところで、会社と名前は言った?」
「何かあったときのために、一応名刺は渡しておきました。」
「そりゃ、近いうちに会社にくるんじゃない?」
「えーっ、会社に?そうなんですか?」
急に彼の顔から笑顔が消えたことは言うまでもない・・・

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July 18, 2005

第23話 G♂氏の場合

 人には様々な才能がある。緻密に物事をこなす人。どんな苦境も柔らかく受け流す人。特殊な分野で想像もつかない発想を出せる人。今回登場するG♂氏は余人を持って変えがたい特質を持っている。まずは桁外れの馬力がある(昼も夜も)。何をやっても悪意がないので、やることなすこと誰からも肯定的に受け止められる。これは組織の中で仕事をする上でアドバンテイジャスなポイントだ。この特質はフィリピン在住時に如何なく発揮されていた。自ら壁を作り、フィリピン人社会に積極的に飛び込もうとしない尻込み駐在員をよそに、彼は貪欲にどんどん入り込んでいった。そしてどこへでも行った。
 彼とはほぼ1日おきくらいにカラオケに行った。カラオケに関しては彼ほどのエキスパートはいなかった。セブに当時何軒あったか知らないが、ローカルの店を含めて彼は30軒以上は踏破していたはずだ。我々はMというグアダルーペにあるカラオケによく行った。
彼は非常にマメなタイプだ。女の子にはよくちょっとした品物を持参していたし、彼女たちが好きな話題にも堪能だ。このあたりは小生とは大違い。小生と同じだったのは歌う歌のジャンルが大体同じだったこと。これは意外と厄介だ。「なにっ、それを歌うのか、じゃあこっちはこれだっ。」「なにっ、そう来やがったか。じゃあ、これでどうだっ。」「なんだとっ、その手があったか。」・・・延々と飽きもせず、毎回こんな調子だった。
 そんな彼からある真夜中に電話で呼び出しが会った。寝ていたらメイドから起こされた。「You have a call from G♂.」12時はとっくに回っている。「大変なことになっちゃいました!ぶつけちゃいました。」「えーっ、ぶつけたって!・・・」

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July 17, 2005

第22話 キュウリはどこへ消えた!(エピローグ)

 もうここにいてもしょうがない、早くマニラに帰ろう。この日から2日間フィリピン社長からの華々しい接待の幕が切られた。
 よくは覚えてはいないがしゃぶしゃぶのお店に行き腹ごしらえをした後、港の近くだと記憶しているがニッポン人専門の高級クラブへ行った。ドイツの飾り窓は聞いたことはあるが、実際30名近いきれいな女性たちが私を指名してと言わんばかりにアピールしてくる。S君は気に入ったちょっと太目の女の子を指名し、横につけ下手な英語を駆使し楽しい夜をすごした。こんなことが2日間びっちり続き、このときばかりは日本に残してき女房も乳飲み子もすっかり忘れ、だまされた事も、帰国した後役員に言い訳することもすっかりわすれ、今度は自らフィリピンに騙されてもいいという気持になったのがすごく不思議である。フィリピンの人たちはとにかく明るく、人懐こい。ずーっと前から馴染みの客だったのかと勘違いする程の素朴さがよかった。夢のような高級クラブで過ごした後ダバオ、ジェネラルサントスへと大名旅行は続いた。この間もたくさんの面白い話があるのだが、またの機会にする。
 ところでニッポンへ戻ったあと、仕入課長がどのような報告を役員にしたのか、S君は知らない。その当時は何のお咎めもなかったと記憶している。それどころか課長はとんとん拍子で出世し、やがて役員にまで上り詰めた。フィリピンだけではない、どうやらニッポンも魑魅魍魎の世界のようだ。

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July 15, 2005

第22話 キュウリはどこへ消えた!(その4)

ニッポンから来た一行が応接に通され、フィリピン社長から説明が始まった。中身はこうだ、1000t分の種をもらい、自前の農場と近隣の農民に種を配り、作付けを依頼した。農民いわく、台風がたびたび訪れ全滅になったという説明をしているという。確かにフィリピンは台風銀座だ。しかし台風の来ない季節を選んで栽培をさせたはずではなかったのか。社長はこの国ではよくあることだが大変申し訳ないと頭を下げた。後で聞いた話だが社長の想像ではこうだ。キュウリはフィリピンでは他の野菜より高値で流通している。農民は市場相場の高いところへ横流しをしたか、種ごと横流しをしてみんなで分配したかだろうと語っていた。
 それにしても不思議なことは、社長もまったく気がつかなかった事だ。作付けの状況とか、何のチェックもしなかったのか。この社長もフィリピン化した日本人の典型か。ノーチェックでオーケー、オーケー、ノープロブレム。
 ニッポン側は1ヶ月おきに栽培の状況を現地から送ってもらい、写真やデータまで添えてきたのだ。社長も見ているはずだし、社長も含めてだまされていたのか。だまされていたとすれば社長を除いて会社ぐるみでの詐欺である。この国は社長も騙すのか。そして言い訳にならないような言い訳を平然と語り嘯く、この後長い長い沈黙の時間が流れた。現地の担当者を怒鳴りつけたい気分ではあったが、下請け会社の社長がこう言った。フィリピンの人は人前で怒鳴りつけると命の保障はないよ。ここはがまんしたら・・・。よく言うよ、そんなあんたは自分の会社の原料だと人目をはばからず怒鳴っていたではないか。S君はいつも見ていたのだ。
 忠告もありここは冷静に聞くことにした。この地で後2日の予備日を取っていたが仕事がない。S君は今回の事件について自分の責任範囲を一応考えてみた。正直今回のフィリピンは勉強のために連れてきてもらったもの、S君の責任はないと思いまずは一安心。しかし実際に仕入課長は役員にどのような説明をするのだろうと考えながら床に就いた。

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July 14, 2005

第22話 キュウリはどこへ消えた!(その3)

 次の日はマニラから200km北に向かい、栽培されている農場まで行った。さあいよいよフィリピン人にS君の指導のときが来た。実はS君はフィリピン人にバカにされないためにニッポンでキュウリの塩付けのやり方を猛特訓しておいたのだ。
 我々は心を弾ませて畑に向かった。周りが低い山に囲まれていて、水はけの悪そうな痩せた土地ではあったが、確かにキュウリはたくさん実をつけていた。でもこの畑ではどう見ても5t分くらいしかない。農場長に尋ねたところ、ここから離れた別の場所に残りの分はあるとの事だった。ちなみに件の貿易会社の社長に依頼したキュウリの量は生原料で約1000tある。作付け面積では多分東京ドーム3つ分くらいになるだろう。その日は移動時間も長かった為、もうひとつの畑を確認するでもなく、早々にモーテルに入りフィリピン料理を堪能した。田舎のレストランでは時折ニッポン語なのかタガログ語なのかわからない言葉が耳に入ってくる。フィリピン社長がジャパユキさんですよと言い、チップを少しあげて我々の隣に着かせた。そしてにわかクラブのような宴会が始まった。なんてフィリピン人は明るいのだ、気さくで、やさしい、おまけに石鹸のいいにおいがする。S君は一気にこのムードに嵌まり込んでしまった。
 翌日、早速工場へ向かった。予定では朝からトラックに積まれたキュウリがどんどん工場に運ばれてくる予定だ。塩も用意した。漬け込むタンクも用意した。S君は作業服に着替え、長靴を履き準備万端であった。30分が過ぎ、そして1時間が過ぎた。トラックが工場に入ってこない。フィリピンの社長が「ここはフィリピン時間ですよ。そのうち着きます」と余裕の表情。純ニッポン人には考えられないことではあるが、そんなものなのかと妙に納得してしまい、待つことにした。2時間が過ぎた、さすがに今度はフィリピン社長があせってきた。なにやら英語でやり取りをしている。こちらは通訳を頼んでいないので何を言っているかよく解らない。電話の終わったフィリピン社長が今度は幹部たちを集めてなにやらミーティングを始めた。どうもおかしい、これはただ事でないぞ・・・

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July 13, 2005

第22話 キュウリはどこへ消えた!(その2)

 登場人物の説明を少ししておきたい。まずは横浜の件の貿易会社社長。
若いときはある商社の営業マンで、東南アジアを中心に海老の養殖輸入で活躍し、そのときの人脈でフィリピンとの貿易をしている小さな貿易会社の社長だ。外見は堅気とは見えない風貌であり、ちょっとかっこいい口髭と、車は白のセルシオ。どうしてこの業界はこのような風貌の方々が多いいのだろう。そもそも海老や野菜は生ものであり相場ものである。相場師のような方がた、切った、張ったの世界で生きているため、その道で生きてゆく方々はみな同じ風貌になってしまうのか。
 フィリピンの社長は至ってまじめタイプ。大学生になるときお金がなく、生の英語を勉強したくて物価の安いフィリピンへ渡ったそうだ。マルコス政権の崩壊のときにチャンスが来た。日本の大手商社がマルコスを利用して利権を持ち、崩壊と同時にフィリピンから命かながら逃げて帰ったそうだ。その後流れが一気にこのフィリピン社長に来て、幾度となく命をとられる危険に会いながらも、今では日本国内の大手スーパーにダイレクトに商品を納入し、例の12チャンネルのビジネス・・・の番組にも登場した人物である。
 さて本題である。横浜の貿易会社社長がすでに種を渡し台風のシーズンを避けて物事は進んでいるはずだ。ある時、貿易会社の社長から数十トンのキュウリができましたという話を聞いて、S君の会社の仕入課長、部下のS君、S君の会社の下請け会社C社長、件の貿易会社社長の4人でマニラに向け、成田を発った。やはりというべきか、入管を抜けるとき、例の貿易会社社長がいくら待っても出てこないのだ。入管で取調べを受けていたらしい。ニッポンヤクザと間違われたらしい。ヤクザ風社長がこう言った「あまりしつこいので500ペソ渡したよ。フィリピンなんてこんなもんさ。」。フィリピンを知らない私にはこれがどういう意味かよく理解できなかったが、どうやらこの国ではあたりまえらしい。その日は、マニラの日本人社長と初めて会い、その夜は食事をしマニラの夜を大いに?堪能した。この時は今後起きることなど予測だにしなかった。

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July 12, 2005

第22話 キュウリはどこへ消えた!(その1) 

 フィリピンでビジネスをする日本人の成功率は本当かどうか知らないが2%とか。失敗するパターンの多くは仕事に対する価値観の違いについての理解不足や、契約ということについての日本人の脇の甘さにあると思う。それともうひとつは、そもそもきちんとした仕事の管理がなされずに、現地人を信用してしまい、あとで、こんなはずでは・・・となってしまうことも多いようだ。
 S氏は大学の農業系学部を卒業し、郷里である北関東のある食品メーカーに勤務していた。主に漬物を製造している会社だ。彼によると漬物メーカーはコスト削減のために、形が悪くて市場に出回らないキュウリや大根を安く調達するそうだ。細かく切ってしまうのだから元の形はどうでも構わない。彼の会社ではコスト削減のもうひとつの策として、野菜を海外で安く作ることを目論んでいた。以下はS氏から聞かされた話である。
 その企画は突然始まった。S君はある食品メーカーの原料担当に突然任命された。中国からの輸入が95%以上のキュウリの輸入がその年は不作で、キュウリの真ん中に穴の開く病気がはやり、国内のメーカーは購買人員を増やし争奪戦に突入していった。そんな頃彼の会社に横浜に事務所があるという人相の悪い貿易会社の社長がフィリピンでのキュウリビジネスの話を持ち込んでいた。
彼のストーリーはこうだ。フリッピンに日本のキュウリの種を持ち込み、現地在住何十年のニッポン人社長に作付けをお願いし、現地の従業員にニッポンの塩付け技術を指導に行く。将来的には中国をけん制できる産地に育てるというのが狙いの業界初のプロジェクトの始まりであったはずなのだが・・・

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July 07, 2005

第21話 もうひとつの戦後5(突然の知らせ)

 帰国して2日ほど経ち、4月12日私はお礼の言葉と共に幾つかの写真をU氏にメールで送った。そしてマニラに電話をかけたが、何度鳴らしても出る様子がない。それから3日ほどして、協会から連絡があった。なんとU氏のお母様が亡くなられたとの突然の知らせだった。私もA氏も絶句した。
 U氏が我々のことをアテンドしてくれていた時も、母親が入院して集中治療室に入っている、ということを我々は聞かされていた。私たちはそういうことなら我々のことは気にしなくてもいいから、と言っていたのだが、律儀な彼は「大丈夫です。」といって我々の世話をしてくれていた。コレヒドールに行く日も、「母は日に日に良くなってきているので、やがて退院できると思います。」と言っていた。彼の明るい表情からは彼自身の希望が感じ取れたので、我々も額面どおりに「それは良かったですね。一日も早く退院できることを我々も願っています。」と伝えていた。
 結果的には、我々が彼の母親との最後の貴重な時間を奪ってしまったことが、私たちにとっても残念でならない。そのような状況でも気丈に息子に対して、きちんと約束を果たすようにと諭したお母様に対しては改めてご冥福をお祈りしたい。
 そして彼は、今では母親の意志を継いで、現地の日系人会長を務めている。他人への気配りがあり、そして行動力旺盛な彼なら、きっと素晴らしい活躍をしてくれることだろう。A氏も何か応援する手立てはないものかと思案をめぐらしている。

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July 04, 2005

第21話 もうひとつの戦後4(慰霊)

 コレヒドールは5平方キロメートルと小さく、おたまじゃくしのような形で東西に細長い。島の北側からはバターン半島が指呼の間だ。恐らくA氏のお兄さんも間近に迫った運命を察することなく、今日と同じような穏やかな海と景色を見ていたのだろう。件の白鹿丸はこの島のすぐ南側を通ったと推測されている。A氏も感慨深げに遠くを見やっている。A氏は昼食後、南西方向が良く見える浜辺に下りて、持参してきた慰霊のための品を目的方向の海中に投じて、祈りを捧げた。私とU氏はこの儀式にはむしろ同行しないこととして、レストランで待つこととした。その間も彼の同僚たちは万が一に備えてA氏を背後から警護していた。
 この島では日米双方と地元のフィリピン人で数万人というおびただしい犠牲者が出たそうだ。戦争の爪あとの建物や施設とともに夫々の戦没者慰霊碑がきれいに整備されて残されている。侵略者の立場となった日本人の慰霊碑も島の東端にあり、今でもきれいに整備されている。このあたりにもこの国の人達の寛容さがよく表れている。以前、当時のラモス大統領は言われたそうだ。「日本はかつてこの国を侵略したが、いいものも持ってきてくれた。日本語特有の韻はフィリピン人の言葉の教育に役立った。かき氷はハロハロと形を変え、今ではこの国の名物にもなっている。このようなことも評価しよう。」と。
 我々は3時過ぎに再びフェリーに乗り込み、マニラに向かった。マニラは汚れた空気で霞んでいた。

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July 01, 2005

第21話 もうひとつの戦後3(U氏の場合)

さて、ここでU氏のことである。U氏の母自身日系人であり、彼の祖父は日本人である。彼の祖父は、未だ日本がフィリピンを一時占領する前から米軍で日本語通訳として働いていた。まさか、こんな形で日米が戦うなどと想像もしなかったのかも知れない。彼の祖父は米軍からはあくまでも米国の為に働くよう要請されたそうだ。しかし、彼の祖父は悩んだ末、日本人としての道を選んだ。日本軍の形成が不利になり、米空軍の飛来があった時に、日本の国旗を振って「万歳」を連呼した。当然の集中砲火を上空から浴び、悲壮な最期を遂げられたそうだ。日本とアメリカの狭間でどうしようもない運命の中での悲しい結末である。勿論U氏もその場に居合わせたわけではないが、母からしっかりと話を受け継いでいる。まだ60年くらいしか経っていないじゃないか。我々日本人はこういった事実から目をそむけてはならない。
 彼は心は半分は日本人だ。コレヒドールでのことである。今や観光の島となったここには多くの日本人が訪れる。目的は様々。我々が島の中を散策していた時に、とても恥ずかしい日本人がいた。年のころなら30ちょっと前。フィリピン人の若い女性を連れている。極めて断片的な日本語から察して彼女は所謂じゃぱゆきさんではないだろう。彼自身は察するところ英語はカラッキシ、と見えた。我々のすぐ目の前にいた彼は砲台がある丘でつぶやいた。「蚊が多いなあ、こんなところじゃビールも飲めねえよ。」U氏の反応は早かった。「いやならとっとと帰れよ!」。件の日本人状況を悟られたうえでの咄嗟の叱咤で慌ててしまい、今度は連れていた彼女にもつれない。全てを見抜かれている。よほどバツが悪かったらしく、フィリピン人の彼女すらも遠ざけた。連れてきた彼女に失礼だろう。コレヒドールで眠る英霊たちも今の日本人を見て、こんな後世のために命をささげたのかと、嘆いていることだろう。U氏は「私は半分は日本人です。だからあんなやつらは許せない。」

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