July 17, 2005

第22話 キュウリはどこへ消えた!(エピローグ)

 もうここにいてもしょうがない、早くマニラに帰ろう。この日から2日間フィリピン社長からの華々しい接待の幕が切られた。
 よくは覚えてはいないがしゃぶしゃぶのお店に行き腹ごしらえをした後、港の近くだと記憶しているがニッポン人専門の高級クラブへ行った。ドイツの飾り窓は聞いたことはあるが、実際30名近いきれいな女性たちが私を指名してと言わんばかりにアピールしてくる。S君は気に入ったちょっと太目の女の子を指名し、横につけ下手な英語を駆使し楽しい夜をすごした。こんなことが2日間びっちり続き、このときばかりは日本に残してき女房も乳飲み子もすっかり忘れ、だまされた事も、帰国した後役員に言い訳することもすっかりわすれ、今度は自らフィリピンに騙されてもいいという気持になったのがすごく不思議である。フィリピンの人たちはとにかく明るく、人懐こい。ずーっと前から馴染みの客だったのかと勘違いする程の素朴さがよかった。夢のような高級クラブで過ごした後ダバオ、ジェネラルサントスへと大名旅行は続いた。この間もたくさんの面白い話があるのだが、またの機会にする。
 ところでニッポンへ戻ったあと、仕入課長がどのような報告を役員にしたのか、S君は知らない。その当時は何のお咎めもなかったと記憶している。それどころか課長はとんとん拍子で出世し、やがて役員にまで上り詰めた。フィリピンだけではない、どうやらニッポンも魑魅魍魎の世界のようだ。

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July 15, 2005

第22話 キュウリはどこへ消えた!(その4)

ニッポンから来た一行が応接に通され、フィリピン社長から説明が始まった。中身はこうだ、1000t分の種をもらい、自前の農場と近隣の農民に種を配り、作付けを依頼した。農民いわく、台風がたびたび訪れ全滅になったという説明をしているという。確かにフィリピンは台風銀座だ。しかし台風の来ない季節を選んで栽培をさせたはずではなかったのか。社長はこの国ではよくあることだが大変申し訳ないと頭を下げた。後で聞いた話だが社長の想像ではこうだ。キュウリはフィリピンでは他の野菜より高値で流通している。農民は市場相場の高いところへ横流しをしたか、種ごと横流しをしてみんなで分配したかだろうと語っていた。
 それにしても不思議なことは、社長もまったく気がつかなかった事だ。作付けの状況とか、何のチェックもしなかったのか。この社長もフィリピン化した日本人の典型か。ノーチェックでオーケー、オーケー、ノープロブレム。
 ニッポン側は1ヶ月おきに栽培の状況を現地から送ってもらい、写真やデータまで添えてきたのだ。社長も見ているはずだし、社長も含めてだまされていたのか。だまされていたとすれば社長を除いて会社ぐるみでの詐欺である。この国は社長も騙すのか。そして言い訳にならないような言い訳を平然と語り嘯く、この後長い長い沈黙の時間が流れた。現地の担当者を怒鳴りつけたい気分ではあったが、下請け会社の社長がこう言った。フィリピンの人は人前で怒鳴りつけると命の保障はないよ。ここはがまんしたら・・・。よく言うよ、そんなあんたは自分の会社の原料だと人目をはばからず怒鳴っていたではないか。S君はいつも見ていたのだ。
 忠告もありここは冷静に聞くことにした。この地で後2日の予備日を取っていたが仕事がない。S君は今回の事件について自分の責任範囲を一応考えてみた。正直今回のフィリピンは勉強のために連れてきてもらったもの、S君の責任はないと思いまずは一安心。しかし実際に仕入課長は役員にどのような説明をするのだろうと考えながら床に就いた。

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July 14, 2005

第22話 キュウリはどこへ消えた!(その3)

 次の日はマニラから200km北に向かい、栽培されている農場まで行った。さあいよいよフィリピン人にS君の指導のときが来た。実はS君はフィリピン人にバカにされないためにニッポンでキュウリの塩付けのやり方を猛特訓しておいたのだ。
 我々は心を弾ませて畑に向かった。周りが低い山に囲まれていて、水はけの悪そうな痩せた土地ではあったが、確かにキュウリはたくさん実をつけていた。でもこの畑ではどう見ても5t分くらいしかない。農場長に尋ねたところ、ここから離れた別の場所に残りの分はあるとの事だった。ちなみに件の貿易会社の社長に依頼したキュウリの量は生原料で約1000tある。作付け面積では多分東京ドーム3つ分くらいになるだろう。その日は移動時間も長かった為、もうひとつの畑を確認するでもなく、早々にモーテルに入りフィリピン料理を堪能した。田舎のレストランでは時折ニッポン語なのかタガログ語なのかわからない言葉が耳に入ってくる。フィリピン社長がジャパユキさんですよと言い、チップを少しあげて我々の隣に着かせた。そしてにわかクラブのような宴会が始まった。なんてフィリピン人は明るいのだ、気さくで、やさしい、おまけに石鹸のいいにおいがする。S君は一気にこのムードに嵌まり込んでしまった。
 翌日、早速工場へ向かった。予定では朝からトラックに積まれたキュウリがどんどん工場に運ばれてくる予定だ。塩も用意した。漬け込むタンクも用意した。S君は作業服に着替え、長靴を履き準備万端であった。30分が過ぎ、そして1時間が過ぎた。トラックが工場に入ってこない。フィリピンの社長が「ここはフィリピン時間ですよ。そのうち着きます」と余裕の表情。純ニッポン人には考えられないことではあるが、そんなものなのかと妙に納得してしまい、待つことにした。2時間が過ぎた、さすがに今度はフィリピン社長があせってきた。なにやら英語でやり取りをしている。こちらは通訳を頼んでいないので何を言っているかよく解らない。電話の終わったフィリピン社長が今度は幹部たちを集めてなにやらミーティングを始めた。どうもおかしい、これはただ事でないぞ・・・

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July 13, 2005

第22話 キュウリはどこへ消えた!(その2)

 登場人物の説明を少ししておきたい。まずは横浜の件の貿易会社社長。
若いときはある商社の営業マンで、東南アジアを中心に海老の養殖輸入で活躍し、そのときの人脈でフィリピンとの貿易をしている小さな貿易会社の社長だ。外見は堅気とは見えない風貌であり、ちょっとかっこいい口髭と、車は白のセルシオ。どうしてこの業界はこのような風貌の方々が多いいのだろう。そもそも海老や野菜は生ものであり相場ものである。相場師のような方がた、切った、張ったの世界で生きているため、その道で生きてゆく方々はみな同じ風貌になってしまうのか。
 フィリピンの社長は至ってまじめタイプ。大学生になるときお金がなく、生の英語を勉強したくて物価の安いフィリピンへ渡ったそうだ。マルコス政権の崩壊のときにチャンスが来た。日本の大手商社がマルコスを利用して利権を持ち、崩壊と同時にフィリピンから命かながら逃げて帰ったそうだ。その後流れが一気にこのフィリピン社長に来て、幾度となく命をとられる危険に会いながらも、今では日本国内の大手スーパーにダイレクトに商品を納入し、例の12チャンネルのビジネス・・・の番組にも登場した人物である。
 さて本題である。横浜の貿易会社社長がすでに種を渡し台風のシーズンを避けて物事は進んでいるはずだ。ある時、貿易会社の社長から数十トンのキュウリができましたという話を聞いて、S君の会社の仕入課長、部下のS君、S君の会社の下請け会社C社長、件の貿易会社社長の4人でマニラに向け、成田を発った。やはりというべきか、入管を抜けるとき、例の貿易会社社長がいくら待っても出てこないのだ。入管で取調べを受けていたらしい。ニッポンヤクザと間違われたらしい。ヤクザ風社長がこう言った「あまりしつこいので500ペソ渡したよ。フィリピンなんてこんなもんさ。」。フィリピンを知らない私にはこれがどういう意味かよく理解できなかったが、どうやらこの国ではあたりまえらしい。その日は、マニラの日本人社長と初めて会い、その夜は食事をしマニラの夜を大いに?堪能した。この時は今後起きることなど予測だにしなかった。

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July 12, 2005

第22話 キュウリはどこへ消えた!(その1) 

 フィリピンでビジネスをする日本人の成功率は本当かどうか知らないが2%とか。失敗するパターンの多くは仕事に対する価値観の違いについての理解不足や、契約ということについての日本人の脇の甘さにあると思う。それともうひとつは、そもそもきちんとした仕事の管理がなされずに、現地人を信用してしまい、あとで、こんなはずでは・・・となってしまうことも多いようだ。
 S氏は大学の農業系学部を卒業し、郷里である北関東のある食品メーカーに勤務していた。主に漬物を製造している会社だ。彼によると漬物メーカーはコスト削減のために、形が悪くて市場に出回らないキュウリや大根を安く調達するそうだ。細かく切ってしまうのだから元の形はどうでも構わない。彼の会社ではコスト削減のもうひとつの策として、野菜を海外で安く作ることを目論んでいた。以下はS氏から聞かされた話である。
 その企画は突然始まった。S君はある食品メーカーの原料担当に突然任命された。中国からの輸入が95%以上のキュウリの輸入がその年は不作で、キュウリの真ん中に穴の開く病気がはやり、国内のメーカーは購買人員を増やし争奪戦に突入していった。そんな頃彼の会社に横浜に事務所があるという人相の悪い貿易会社の社長がフィリピンでのキュウリビジネスの話を持ち込んでいた。
彼のストーリーはこうだ。フリッピンに日本のキュウリの種を持ち込み、現地在住何十年のニッポン人社長に作付けをお願いし、現地の従業員にニッポンの塩付け技術を指導に行く。将来的には中国をけん制できる産地に育てるというのが狙いの業界初のプロジェクトの始まりであったはずなのだが・・・

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